いつも流れていたジョーン・バエズ
この曲のリリース当時に、進まない卒論を抱えながら書いた妄想です。なんかやけに捗った部屋の掃除みたいな。
Tender days
「悪い、遅くなった」
待ち人が現れたのは、幸浩が運ばれてきたコーヒーにちょうど口をつけようとしたタイミングだった。
強面が地顔の店主が、勝手知ったる顔で向かいの席に腰を下ろす慶太にちらりと視線を寄越す。慶太はいつものようにコーヒーとカツサンドを注文して、最近買ったというお気に入りのダウンを脱いだ。
「お前、今食べるの?」
「どうせ飲み会はコースだろ。教授に挨拶して回ったら、食う時間なんてあるもんか」
大学生活の、いや学生生活の締めくくりとも言うべき卒業論文執筆と、それに伴う忌まわしき口頭試問を終え、今日はささやかな打ち上げが予定されていた。今日が終われば、本格的に学生生活はほぼ終わったと言っても過言ではない。卒業式もあるにはあるが、小学生でもあるまいし、学位記を受け取るだけのことに今更練習もなにもない。
達成感と爽快感と、それからなんとも言えない物寂しさを抱えながら、飲み会までの時間をいつもの喫茶店で潰す。ほどなくして運ばれてきたカツサンドに、彼の言い分も然りだったかもしれないと思えてきてしまった。
「なあ、佐藤」
「駄目」
用件を告げる前に断られる。
「なんで分かんの」
「そりゃあお前、飲み会前はいっつもそうだからだろ」
一切れもらう作戦はあっけなく失敗した。慶太の食べているものはなぜか美味しく見える。隣の芝生と同じだ。しかしなかなか譲ってもらえることはない。
「んで、彼女何だって?」
カツサンドを諦め、彼の遅刻の原因を追及する。口寂しさを誤魔化すように飲んだコーヒーは、いつもと何ら変わらない味で、コーヒーであるという以外に何の取り柄もない、というのが大学内でも評判になるようなそれだ。
「ん、まあ特に何もなかったわ」
「現状維持?」
「まあそんなとこ」
彼は去年の夏から付き合い始めた彼女と、このほど遠距離恋愛が確定してしまい、急遽話し合いの場が設けられたらしい。別れるって言い出すかもなあ、なんて言って心配していた彼は、その実そんな結末を何となく望んでいたようにも見えた。少なくとも幸浩の目には、そう見えたような気がしたのだが。
「悪いけど、別れるかと思ってた」
「そうだな、俺もそう思ってたわ」
「お前、遠距離とか向いてなさそうじゃん」
彼が付き合う女子は、何故だか毎回比較的まめに連絡を取りたがるような子ばかりだった。一方の彼はといえばさほどそうでもないものだから、いかにもありがちなすれ違いを懲りずに繰り返してきた。それを幸浩は、大学2年の春に彼と知り合ってから3年間、ずっと見てきたのだ。友人の目から見て、彼に遠距離恋愛が務まる気がしない。
「まあいいんだよ、やってみて駄目なら諦めもつくだろ」
「まあ、そうか」
「物理的な距離が多少あったほうが、うまくいく気もしたんだよなぁ」
彼が彼女との関係を前向きに続ける気でいたことに驚いた。
てっきりウェットな彼女にさらりと別れを告げてきて、ああこれで独り身かあなんて宣うのだとばかり思っていて、幸浩はそんな彼をここの美味しくもないコーヒーで慰めるつもりでいたのだ。
今までの彼はそうして何人もに別れを告げてきたのを見ていたから。
「結婚すんの?」
「うまくいけば、あるいはな。お前、呼ぶから式には来いよ」
「はあ」
彼が否定もせず曖昧に可能性を滲ませたことで、急に幸浩の中で結婚という二文字が重みを増す。なんだよ、つい数時間前まで「別れるかも」と思っていた相手と、結婚なんて出来るのか。
「嘘だよ、まだ全然分かんねえよ」
ガシャガシャとグラスの中の氷をかき混ぜながら、慶太がこちらを見ている。
いつも同じ席で、いつもお互い決まった側の椅子に座り、いつもこうして彼と相対してきた。何一つ難しいことを考えることもなく。
今日が終われば、もうこの店を訪れることはないのだろう。4月が来たら、この席はまた違う学生の指定席にになるのかもしれない。
たかだか行きつけの喫茶店ひとつで、そんなにセンチメンタルになることもないだろう。それでも、こんな日にこんな話題になるなんて、ちょっとお誂え向きすぎやしないか。手持ち無沙汰に含んだコーヒーの、深みのない苦味だけがいやに奥歯に残る。
「…うーん。やっぱりマスター、俺もカツサンド!!」
ふいに過ぎった感傷を誤魔化すように、カウンターの向こうで読書に耽る店主を呼んだ。幸浩の大きな声に、思い切り渋い顔をされたが、向こうも向こうで営業時間中に本なんか読んでいるのだからお互いさまだ。
「結局お前も食うのかよ」
「てめえがくれないからだろうが」
「いや、人のせいにすんなよ」
心残りは無くしておきたかった。そんなことは、小っ恥ずかしいのでもちろん彼には言わない。 それでも彼も似たような感慨だったのだろうか、席を立つその一瞬だけは、少しだけ名残惜しそうな顔をしているように見えた。
「もうここのしみったれた音楽ともオサラバだな」
会計をしながらそんなことを言うもんだから、店主に思い切り睨まれていたけれど。
ガラゴロと大仰な音を立てるドアを開けば、まだまだ冷たい冬の空気が肺を刺す。
春なんて来なくてもいいのに、と半分本気で考えている。
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「たとえ同じ情景を見たとしても、秋元康の詞と同じだけの情報量を伝えるのには何倍もの文字数が要る。そこに康の魔法がある」という康評を最近とある作曲家の方の講演で伺ったのですが、まさにまさにだなあと思って面白かったので載せてみます。
Tender days、本当に青春・・・